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アーレントとリトルロック事件とポリコレと

 ハンナ・アーレントという20世紀を代表する思想家がいます。近年映画にもなったドイツ出身のユダヤ人で、ナチの台頭によりアメリカに亡命するという経緯から、ナチを生んだ全体主義の分析が彼女の一大テーマでした。しかし、「アーレントと差別」で有名なのはユダヤ人への迫害だけではありません。それが1957年のリトルロック事件です。意外なことに、ここではアーレントは逆に、差別する側に軸足を置いたとも言える議論を行います。

 リトルロック高校事件 - Wikipedia

 事件の詳細はwikipediaなどを読んでもらえればいいのですが、アーレントは白人と黒人の分離教育が違憲とされ融合教育が法的に進められたことと、黒人学生の登校時に軍という権力が護衛についたことを批判します。
 以下、ちくま書房より出版されているアーレント著「責任と判断」より引用します。

多分これもフォークナーの発言だったと思うが、強制された分離撤廃は、強制された分離と同じように望ましくないと言う意見を読んだことがあるが、わたしはこの意見はまったく正しいと思う。
<<中略>>
実際には、憲法に違反した法律に関しては、公民権法はまだ不十分である。南部の諸州のもっとも忌まわしい法律が手つかずのままに放置されているからだ−−−白人と有色人種の結婚を犯罪行為としている法律である。自分の好きな人と結婚する権利は基本的な人権の一つであり、これと比較すると「皮膚の色や人種にかかわらず、白人と黒人の分離が撤廃された学校に通う権利、バスで自分の好きな場所に座る権利、ホテル、レクリエーション・エリア、娯楽施設に立ちいる権利」などは、実際にそれほど重要ではないのである。
<<中略>>
白人と黒人の分離は法律で施行されている差別である。分離を解消するためには、差別を施行している法律を廃止する以外には方法はない。差別を施行する法律が廃止されても差別そのものをなくすことはできないし、社会に平等を強制することはできない。しかしそれで政治体のうちで平等を強要することはできるし、実際に強要しなければならないのだ。平等とは政治体で初めて生まれるものだからという理由だけではない。平等が有効なのは政治的な領域だけに限定されるのは明らかだからだ。政治の世界でのみ、わたしたちは誰もが平等なのである。

 アーレントはこの批判において、公的領域、社会的領域、私的領域という用語を用いてます。公的領域は政治・法・制度といった国家や権力に付随する空間。私的領域は個人の身体・内心とその発露としての家族。社会的領域については公的領域と私的領域との間に曖昧に広がるそれ以外の空間をそれぞれ意味します。


 アーレントは教育という場を社会的領域と判断し、公的領域では平等が不可欠だけれども、私がバカンスでユダヤ人とだけ過ごすのは私の自由だと、そういった社会的領域では差別があって当然なものだ、と主張するわけですね。社会的領域での差別を無くそうとすると、それは全体主義に繋がると。だから人種間の結婚を禁止したり強制的に教育を分けたりすることは公的領域における不平等だから是正すべきだけども、白人専用の公立校を禁止したり、軍という権力を行使することもまた抑圧だ、となる。


 人種で利用できる設備を分けることを許容しろみたいなとことか、引用していない部分も含めて、アーレントの主張を現在の基準で見ると「差別的だなー」と思われる部分だらけです。実際アーレントはこの主張では当時のリベラルからボコボコに批判されますし、その後の黒人の公民権運動の高まりとともに分離政策は様々な場で失われていきます。彼女が偉大な思想家であることは間違い無いんですが、ことこのリトルロック事件の話については死んだ主張と僕は思ってたんですね。


 だけど、昨今の「過剰なPC」「ポリコレ棍棒」とやらの議論、というよりは問題提起くらいの段階ですが、を俯瞰するときにアーレントの話はストンとこの状況を整理できるような気がします。これ自分には驚きでした、死んだと判断するのはまだ早いな、と。


 もちろん、社会的領域が強大化及び多様化していくなかで、アーレントの主張を適用するのは危険です。社会的領域にも、大企業のような極めて公的領域に近い領域があり、そこではPCが原則的に求められるのは間違いないでしょう。もし融合教育を進めなければ、現在の差別被害がより少なかったというような話にも説得力はありません。


 ただ、PCが侵されてはいけない領域と侵してはいけない領域とは何かという話に、一定の合意を得るのには十分使えそうです。つまり公的領域の議論にはPCの遵守は必要だし、私的領域にまでPCを適用しようとするのはダメだと。まあこの辺りは分かっている人には今更当然の話なのでしょうけども。(だから「生理的にダメ」は公的領域の話に反対する理由としては少なくとも認めちゃいかんだろうなぁ、と。抵抗感の表明は許されても、嫌悪感の表明は基本的にダメ。逆に、社会的領域の中でも身体という私的領域に強く根ざしたトイレや浴場の話だと「生理的にダメ」としか言えない人もいる気はします。この辺りを誤解のないように表現するのにツイッターは難しい。)

 

 アメリカのリベラルとそれ以外の諸派の現代政治理論は、黒人公民権運動とロールズの「正義論」から始まったといえます。日本社会はそういった壁を乗り越えてきたわけではなく、いわば借り物というのも一定程度事実ではありましょう。PCを改めて考える議論のスタートラインはアメリカの1950年代に設定する必要があるのかな、という気が最近しています。